日本のエネルギーを支えた産業都市として、
昭和をかけぬけた大牟田。
光あるところに影があるように、
繁栄のあとには衰退が待ちうけているように、
大きく変化した時代の中で少年期をすごした。
そこには、 人生の縮図があった。


つぶやき:【私の小学生時代A】本町通り(現サンルートから南へ続く本町1-2丁目)の記憶をたどってみた。現在も残っている店舗は北から順に、銀座通り角の「辰巳屋」さんという紳士服店、 その南側の「樋口紙店」、美容室「リード」、村石畳店(現・村石クリニック)、原武酒店(現・スーパーBOX)及び日本福音ルーテル教会ぐらいしか思い出せない。当時(1950年代)「樋口紙店」の先に 大きな金物店があったが名前がでてこない。この店には広島の従兄がたびたび出張で営業に来てはわが家に泊まっていた。そこからしばらく行くと間口一間ほどの小さな八百屋さん、確か、仙田さんちがあった。 これまでの話は、松屋デパートを背にして右側の記憶で、左側は「美容室リード」以外とんと思い出せない。たぶん、小路がいく筋かあり、小さな飲食店がひしめき合った飲み屋街だったように思われる。 その先には「蓮尾荒物店」(ここの優しい店主は父の同級生だったと聞いていた)。その前(通りの右側)にあんこ屋さんがあり、その先の築町に抜ける大通りの角に本屋さんがあった。通りの先、右角には 「古賀薬局」(1975-1979年の大牟田市長古賀治宅)、その先に親父がヤクザ者の「堤八百屋」、その隣は姉が働いていたことがある「玲晄美容院」、その先に洋館風の「ドレスメーカー女学園」 (高校の先輩の中野さんち)、原武酒店の前に「蓮尾電気店」先の通りの右角地には謎の豪邸があり(どんな綺麗な人が住んでいるんだろうと興味津々だった)。 通りの先は左側に材木店(戦前は置屋だったと聞いている)、右側には「蓮尾病院」、「テーラー古賀」と続き、ルーテル教会のはす向かいは墓地が広がっていてお盆の時、提灯片手に肝試しに行ったりもした。 その先に同級生の「石橋活版所」、その前に「甲木靴店」があり、その先の国道389角に「タバコ屋」があった。そこの江上さんは白銀立橋付近の正山町教会の「シスター」で、親父の同級生でもあり、 よくわが家に来ていた。
閘門式ドックを持つ三池港

この閘門は、有明海の潮差の影響を受けないように設計され(パナマ運河と同じ機能)、 1万トン級の船舶の停泊・荷揚げを可能にした日本で唯一の設備。 世界文化遺産! 三池港 展望所より。 
2016年8月
三池港の「光の航路」

毎年1月と11月ごろの2回、三池港の航路先端から閘門 (有明海の潮差の影響を受けないように設計されたパナマ運河と同じ機能の設備) を抜け三池港展望所まで、ほぼ一直線の落陽を見ることができる。まさに絶景!
2019年11月
旧大牟田市内線204号(通称204号)

炭都として栄えていた当時(1927年から1952年までの25年間)、 この路面電車が旭町⇔四ツ山間で運行、人々の生活の足として活躍していた。 その電車が大牟田駅西口広場に2019年3月から展示されている。
2023年4月
旧五月橋巡査派出所(現栄町公民館)

築町公園(伊能忠敬の記念碑がある)の北側にあるこの建物は 戦前のものと思われる。このレトロで雰囲気あるたたずまいは 当時、この場所がいかに賑わっていたかを感じさせてくれる。
2008年3月
第三区祇園(八剣神社)の「大蛇山」

大牟田各所(祇園六山)で300年以上も守り続けられている勇壮な、地域最大の祭り。 御神体である大蛇の頭を振らせながら火煙・花火を吐き、練り歩く。大蛇の口に子供を、 かませるがごとく差し入れ、無病息災を祈る。
2018年7月
イオンモール内のセントラルシネマ

2010年3月岬町にオープンしたイオンモール はイオンと西端にあるこの映画館が核となる ショッピングセンター。レトロで昭和のモルタ ル建築っぽいのがいい。
2011年8月

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